この文章は自分についての整理整頓なので、ブログに書く必要はないけれど、この「ナタリーってこうなってたのか」はとても良い本なので、多くの人が手にとってくれればいいなと思って書いておく。
渋谷の本屋を数軒まわって、結局SHIBUYA TSUTAYA 8階でようやく手に入れた。
そしたらKindle版もすぐに出た。こんなにページの隅っこを折り返すことになるのなら、アプリ内でマーキングできるKindle版を買うんだったと思っている。
この本にはナターシャ代表取締役社長・大山卓也さんがどんな経緯で「ナタリー」を立ち上げたのか、どんなことを考えながらやっていたのか、ということが書いてある。自伝であると同時に、これまでメディアに関わるなかで何をやってきて、何をやってこなかったのか、そんなリスト集にも読める。
いくつか共感するところがあった。大山さんが出版社で編集の仕事を始めてしばらくして考えたことはこんな事柄だったという。
この時代に学んだことのひとつが「編集者の仕事は自己表現ではない」という思想だ。ゲームの紹介や攻略記事を載せる雑誌なのだから、当然読者が求める価値は情報そのものにある。
記事を作るにあたって「書き手の思いはどうでもいい」というのが、ナタリーの一貫したスタンスだ。必要なのは情報だけ。
ニュースサイトは芸術ではないし、多くの人に見てもらってなんぼの世界だ。
そうだなあと思う。多くのネットメディアに求められているのは情報であって、芸術ではない。欲しいものがそっと置いてあればそれでいい。記事が1パーマリンク単位で流通しがちないま、どこのサイトを見ているのかも意識しない時代になってきているのだから、芸術からはさらに遠のいたかもしれない。
こうした感覚は突き詰めると主導権の放棄ということだ。放棄というか、いつの間にか引き剥がされてしまったものかもしれない。
極力平坦で偏りのないフラットなメディア。これは雑誌媒体における「編集」の概念からは生まれ得ないものだし、多くの雑誌由来のウェブサイトは今もこの感覚を理解していないと思う。ウェブにおいては発信する側に主導権はない。
この「ウェブにおいては発信する側に主導権はない」というところは、やっぱりいまのスマホ×ソーシャル全盛においてどんどん進んできている。こう断言している人が身近にもいたなと思ってiPhoneのフォトロールを見返してみたらこんな写真を発見した。

写真を撮りながら本を読む癖があるのだが、このあいだ読んだ田端信太郎さんと本田哲也さんの「広告やメディアで人を動かそうとするのは、もうあきらめなさい。」という本で、田端さんが同じことを言い切っている。もう、そういうもんなのだ。
そして大山さんはこうも言っている。
たぶんウェブメディアの楽しさは、選択権を預けてしまったところにある。自分の場合に置き換えると、読者に絶対に読まれるとわかっていたらきっと醒めてしまうに違いない。送り手側が読者に自由に読ませることができる世界なんてむしろつまらないし、ちょっと嫌だ。
読者に対していかに自分事と思ってもらえるか、というところにこそ工夫のしがいがあって、そこが面白いんじゃないかと思っている。実は数年前からメディアというものの苦境が叫ばれ始めてからの方が楽しくなってきた感じだ。
それにしてもここまで醒めた編集長は見たことがない。
自分は目利きではないと言っているようだ。そういうタイプの編集者は珍しいのではないだろうか。大山さんには会ったことがないし、間近で見たこともないので、印象といえば昔読んだこの記事だ。すげえ髪型だな、やばそうな人だなと思っていた。なにしろ髪型がすごい。
【ITベンチャー社長に聞く!】 ポップカルチャーの通信社を目指す~ナターシャ 大山卓也社長(前編) -INTERNET Watch
いま、本を読んでもやっぱり不思議な人だなという感じを受ける。
うなずくところだらけで、大変勉強になった本だけど、巻末の津田大介さん、唐木元さんというナタリーのコアメンバー残り2人の対談には耳の痛い部分もある。それぞれの言葉を一節ずつ取り上げるとこんな具合だ。
「ネット出身でメディアを始めた人の弱さ」というのは非常に実感するところだ。ここに書かれている「接ぎ木」というのがきっとそれを脱却する鍵なんだろうと思う。その弱さはある意味、個性のようなものだと割り切り、何かに接ぎ木しないと活かすことができないだろう。
自分は紙の仕事には一切携わったことがないが、20代の頃にお世話になった上司が紙出身だったことは大変幸運だった。多くの先輩も紙の仕事を経ていた。
よく同年代のネット編集者と話すのは「上司が紙のノウハウとプライドをしっかり持っていて、かつ自分の主戦場はネットというのは非常にいい環境だった」ということだ。やっぱり紙をやってきた人の言葉は重いというのはあった。2000年代はそれを浴びていて、いまの土台になった。
たぶん、そこに接ぎ木しようとしている。
今後ネットメディアで働き始めようとなったら、そうもいかないだろう。それはちょっと不幸かもしれないし、だけれども、もしかしたら新しい価値観を作り出すのに良い方向に作用するかもしれない。 なんて勝手に思っている。
唐木さんの話は「東京編集キュレーターズ」というイベントでリアルタイムに聞いたことがある。その議事録でもあるこの記事はもう必読としか言いようがない。
東京編集キュレーターズ : ナタリーがニッチ分野で成長し続ける理由、唐木元さんに全部聞きました。
以前に「編集やメディアについて、何度も読み返した2つの記事」というブログの中で紹介したことがある。ちなみにもう1つはBRUTUS編集長、西田善太氏の講演についての記事だ。
東京編集キュレーターズ : BRUTUSが陳腐化しない理由とは? 西田編集長に聞いてみた
いずれにせよ、雑誌に育てられた人の話は読み応えがある。大山さんのこの本にしてもそうだ。
適当が信条のネット編集者らしく、引用ばっかりでお送りした。そもそも引用の基準を満たしているのだろうか。「ナタリーってこうなってたのか」はこれらの言葉が響いた人たちは買って損のない本だ。そういう人の顔が何人か思い浮かんだりもする。

--次回予告
「明日からはまたいつもみたいな犬の漫才師に… 」
ウェブの世界では何を読むか/読まないかについての選択権、主導権は読者の側にある。
たぶんウェブメディアの楽しさは、選択権を預けてしまったところにある。自分の場合に置き換えると、読者に絶対に読まれるとわかっていたらきっと醒めてしまうに違いない。送り手側が読者に自由に読ませることができる世界なんてむしろつまらないし、ちょっと嫌だ。
読者に対していかに自分事と思ってもらえるか、というところにこそ工夫のしがいがあって、そこが面白いんじゃないかと思っている。実は数年前からメディアというものの苦境が叫ばれ始めてからの方が楽しくなってきた感じだ。
それにしてもここまで醒めた編集長は見たことがない。
そもそも送り手が受けての欲しいものを把握するなんて不可能だし、もしそれができると思っているなら送り手側の傲慢だと思う。そもそもどこかのメディアがプッシュしていたからといって、そこにたいした意味はない。
仮に自分がもっと自己主張の強い人間だったら、ナタリーはこういうメディアにはなっていないだろう。「この熱い思いを伝えたい!」というような欲求も薄いし、批評やキュレーションも得意ではない。
自分は目利きではないと言っているようだ。そういうタイプの編集者は珍しいのではないだろうか。大山さんには会ったことがないし、間近で見たこともないので、印象といえば昔読んだこの記事だ。すげえ髪型だな、やばそうな人だなと思っていた。なにしろ髪型がすごい。
いま、本を読んでもやっぱり不思議な人だなという感じを受ける。
うなずくところだらけで、大変勉強になった本だけど、巻末の津田大介さん、唐木元さんというナタリーのコアメンバー残り2人の対談には耳の痛い部分もある。それぞれの言葉を一節ずつ取り上げるとこんな具合だ。
唐木:結局、タクヤも俺も津田っちも出版業界の出身だからね。3人ともフリーライターや編集者だった時期がある。だから3人に共通して言えるのは、オールドメディアの出身であり、そこで教育を受けた人間であるということ。それが、ネットになんらかの親和性があってこっち側に来たわけですよ。
その頃にネット出身でメディアを始めた人にはけっこういろんな弱さがあって、「適当」「ちゃんとしてない」「コピペ」みたいなイメージはあったよね。そういうのをちゃんとやろうという話は、その頃からしてた。だから、ナタリーは実は新しいメディアではなくて、古いメディアを新しいメディアに接ぎ木したものなんだと思う。
「ネット出身でメディアを始めた人の弱さ」というのは非常に実感するところだ。ここに書かれている「接ぎ木」というのがきっとそれを脱却する鍵なんだろうと思う。その弱さはある意味、個性のようなものだと割り切り、何かに接ぎ木しないと活かすことができないだろう。
津田:俺たちは「雑誌に育てられた」という強い自負を持ちつつ、従来の雑誌のスタイルでは今の時代の中でさまざまな音楽を求めている人のライフスタイルに合っていないという問題意識があった。雑誌が持つ本来的なよさをネットでどうやって表現していくのかという命題をずっと考え続けていたような気がする。
自分は紙の仕事には一切携わったことがないが、20代の頃にお世話になった上司が紙出身だったことは大変幸運だった。多くの先輩も紙の仕事を経ていた。
よく同年代のネット編集者と話すのは「上司が紙のノウハウとプライドをしっかり持っていて、かつ自分の主戦場はネットというのは非常にいい環境だった」ということだ。やっぱり紙をやってきた人の言葉は重いというのはあった。2000年代はそれを浴びていて、いまの土台になった。
たぶん、そこに接ぎ木しようとしている。
今後ネットメディアで働き始めようとなったら、そうもいかないだろう。それはちょっと不幸かもしれないし、だけれども、もしかしたら新しい価値観を作り出すのに良い方向に作用するかもしれない。 なんて勝手に思っている。
唐木さんの話は「東京編集キュレーターズ」というイベントでリアルタイムに聞いたことがある。その議事録でもあるこの記事はもう必読としか言いようがない。
以前に「編集やメディアについて、何度も読み返した2つの記事」というブログの中で紹介したことがある。ちなみにもう1つはBRUTUS編集長、西田善太氏の講演についての記事だ。
いずれにせよ、雑誌に育てられた人の話は読み応えがある。大山さんのこの本にしてもそうだ。
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適当が信条のネット編集者らしく、引用ばっかりでお送りした。そもそも引用の基準を満たしているのだろうか。「ナタリーってこうなってたのか」はこれらの言葉が響いた人たちは買って損のない本だ。そういう人の顔が何人か思い浮かんだりもする。

--次回予告

「明日からはまたいつもみたいな犬の漫才師に… 」